水子供養のお寺 常光円満寺 大阪水子供養寺。温もりの感じられる水子供養は有名。供養料も金5000円からで安心。 厄除け・安産祈願・合宿も常光円満寺へ
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〜常光円満寺の由来〜





1250年以上の古い歴史のある常光円満寺
数万坪という広大な寺領荘園をもち
足利将軍や名将吹田氏が自らの菩提寺として
深く信仰されていました
しかし応仁の乱の兵火によって全焼
寺領荘園の全てを失ってしまうのです
(常光円満寺文書)

常光円満寺 ■御本尊 聖観世音菩薩(観音さま)
■開 祖 行基菩薩





行基(ぎょうき)菩薩の布教道場

 天平7年(736)行基菩薩は民衆救済の為に、諸国を巡っていました。ある日夢の中で、「吹田に聖なる香木がある」というお告げを聞き、吹田へ来てみると、夢のお告げどおりに一本の香木が浜辺に打ち上げられていたのです。その頃の吹田は白砂青松(はくしゃせいしょう)の海岸だったのです。

 行基菩薩はその香木で聖観音菩薩像を彫刻し、その場所を聖地としてお堂を建て、香木の聖観音菩薩像をご本尊としてまつられました。布教道場となったこのお堂は浜辺に建てられたので、人々は「浜の堂」とよび、行基菩薩の話を聞くため「集まる者つねに千人を越す」(常光円満寺文書)と言われ、人々は智慧を授かる為に日夜光明(こうみょう)が絶えなかったので、いつか誰言う事なく、山号は「慧日山」となり、「常に光明を放つ寺=常光寺」とよばれるようになりました。

 その後、隣村の吉志部(現在の岸部)にあった圓満井流の猿楽(能楽)発祥の地である円満院を合併して、寺名を「常光円満寺」と改め、ますます近郷近在の信仰を集めたのです。


足利将軍と吹田氏の菩提寺として

 かつては七堂伽藍(がらん)が甍(いらか)をならべ、塔頭(たっちゅう)僧坊十三を数え数万坪という広大な寺領荘園を領有していた荘厳偉容は四隣を圧するほど…と伝えられています。応安二年(1396)足利三代将軍義満は、御本尊・聖観音菩薩に深く帰依され「石垣の修繕料をすべて寄進」(常光円満寺文書)し、祈願所として自らの武運長久を祈られたのです。以来、足利将軍の菩提寺として足利尊氏以下歴代の祖先の位牌をまつり、回向(えこう)をつとめられました。一方、名将吹田氏も「亡母の供養の為、多くの土地を寄進」(常光円満寺文書)され菩提寺として深く信仰されました。

 このように足利将軍や吹田氏が祈願や菩提所を求めているのは自己勢力結集目的以外に祖先の追善供養や乱世を乗り切るために安心立命の加護を常光円満寺に求められていたことがよくわかります。

 その後の常光円満寺は十年戦争であった応仁の乱(1467)で陣僧(僧侶の兵隊)をもって防戦につとめたが兵火によって全焼され寺領荘園のすべてを失ってしまうのです。しかし二百年後の寛文十一年(1671)教範和尚によって再建。さらに二十年余りの月日をかけ昭和五十六年には老朽化した本堂が建てかえられ、境内は整理され、面目を一新する事ができたのです。

 器にあらざる身のこの悲願の達成こそが、行基菩薩の意志が常光円満寺の全てに脈々として、1250年以上、生き続けているものと確信できるのです。

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足利将軍の菩提寺