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骨髄移植の闘病記(体験談)|自分の存在する意味

自分の存在する意味

盲腸発覚

  何ごともなく順調に日が過ぎていったのですが、移植の20日前の10月29日の晩、急にお腹に激痛が走りました。まだ就寝前でしたので、看護師さんを呼び、お薬をいただいたのですが一向に回復の兆しがなく、痛みに耐えること7時間、とうとう我慢の限界になり、午前4時もう一度ナースコールを押しました。
 看護師さんは私のお腹を手で少し抑えて、すぐに放すのです。放したときに激痛が走ったことを言うと、看護師さんの顔が急に強張りました。すぐに医師を呼びにいき、同じような検査をして、「これは盲腸かもしれない」と告げられました。10月30日の朝ことでした。

 しばらくすると、そこには多くの内科の医師が集まり、深刻な顔で話し合っていました。11月9日から移植に向けての前治療をすることが決まっていたからです。前治療とは、移植の際に拒絶反応が起きないように、放射線と抗ガン剤で、身体にある白血球を全て消滅させてしまうものです。白血球がなくなると、まったく免疫力がなくなるので、些細な傷でも治癒できる能力がなく、どんどんそれが悪化して確実に死に至ってしまうのだそうです。
 数分後、内科の医師たちの話し合いの結果、「前治療の10日前で手術は多分出来ないだろうから何とか薬で散らしてもたせよう」と言われました。 ところがその数分後に、外科の医師側から通達があり緊急手術を言われました。それは薬でちらしていても無菌室で、もし再発したら間違いなく死に至ってしまう事・そして今なら手術をしても何とか10日で完全に傷がふさがるだろう、という理由からでした。
 その日の朝、即座に緊急手術が行われる事になりました。本来盲腸は部分麻酔をするのですが、部分麻酔は注射になるので、出来るだけ身体に傷をつけないようにということで盲腸では異例の全身麻酔で、輸血しながらの手術になったのです。  無事に手術は成功、順調に傷口は回復していきました。あと1日でも遅かったら手術は出来なかったと後で聞かされましたので、ここでも私は恵まれていたのです。

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骨髄移植

 平成10年11月6日、移植へ向けての前治療を3日後に控え、まだ手術の傷の痛む中、移植についての詳しい説明を聞きました。

1、

骨髄移植の前に、菌から守る抗体要素である白血球をすべて消滅させなければならない。そうしなければ、身体の白血球が拒絶反応をおこし、生着できない。


2、

白血球の消滅させる方法(前治療)は、まず放射線を4日間浴びて、抗ガン剤を4日間投与する。副作用として、内蔵機能の低下、激しい嘔吐、抜毛、皮膚の変色などがおこり、この時点で1割程度の方が身体が耐えられなくて命をおとされている。

3、

移植後、もし0になった白血球の値があがらなければ、生着不全で移植は失敗となり手のほどこしようがなくなってしまう。

4、

白血球があがるまでは、細菌の感染が最も恐ろしく、もし感染してしまうと治癒しないので、どれほどつらくても薬だけは飲まなくてはいけない。

5、

少しの傷でも、大きな感染症を引き起こすので絶対に身体に怪我などをしてはいけない。

6、

そして移植後、最も恐ろしいのが拒絶反応(GVHD)といわれるものである。拒絶反応(GVHD)とは、これは身体にはいったドナー(相手側)の骨髄液が、自分の身体を攻撃するというもので、肝機能・腎機能の低下・皮膚の老化などの症状が現れ、これが原因で命を亡くされる方も多い。

7、

移植後は拒絶反応(GVHD)の予防の為、免疫抑制剤とステロイドといわれる薬は飲み続けないといけないこと。副作用としては、剛毛、過食、赤み顔、顔のハレ等がある。

などなど

覚悟

 みんなから、「先生の説明は最悪の場合を想定して言うから覚悟して聞いたほうがいいよ。」といわれていたので、覚悟は決めていたつもりだったのですが、やはり移植の日が迫ってくると恐ろしく感じるようになりました。

  ただ1つ嬉しかったことは、放射線治療は全身ではなく部分的に当てるので、子供をつくる組織は無事な可能性は十分にあるということです。これは私が若いためというお医者さまのありがたい配慮でした。

  11月9日、いよいよ前治療が始まりました。まず放射線を4日間です。
  私の場合、不安な気持ちもあったせいか、初日の放射線を浴びただけで激しい吐き気が襲い、地獄の日々の始まりでした。2日目からは歩くこともできなくなってしまい、放射線室へは車椅子で連れて行ってもらいました。あとの3日はもう最悪な状態でした。

  そして放射線治療が終わり、無菌室へ入っての抗ガン剤治療4日間です。あまりの苦しみの中、それでも毎日抗ガン剤を注入されるのです。そのうち、首を動かすことや、目を開ける気力すらもなくなり、苦しみだけと闘いつづけました。眠ってしまえたら少しは楽になれるのでしょうが、あまりの気分の悪さに眠ることすらもできませんでした。
  また何度嘔吐を繰り返しても、吐き気はまったくおさまらないのです。もう、生きた心地はせず、1分、1秒がとても長く感じました。

  ようやく前治療が終わり、17日に白血球の値を計ると完全に0になっていました。移植へ向けての準備がすべて整ったのです。骨髄移植とはドナーから採取した骨髄液を点滴で入れていくのです。

  18日の昼頃、午前中の手術で採取された弟の大量の骨髄液が私のもとに届きました。いよいよ移植の開始です。

  弟の骨髄液がポタポタ私の体の中に入ってくるのを見ていると、その時だけは苦しみを忘れてとても温かい気分になりました。弟は私のために今も入院して痛みや苦しみと闘ってくれているのです。もう感謝の気持ちでいっぱいで、弟のためにも必ず元気な姿をみせてやろうと改めて心に誓いました。

  移植自体は点滴なので痛みはありませんでしたが、この移植が無事に成功するか否かは、白血球の値が上がるかどうかによります。
  そして白血球の値が上がると苦しみは少しずつ和らいでくるそうです。ただ、上がるまでには10日~20日くらいかかるそうで、それまではこの地獄のような苦しみと戦い続けなくてはならないのです。もし上がらなければ、この苦しみが解放されることなく終わってしまうという恐怖もつきまといました。

  移植後、なにより私を苦しませてくれたのは「お薬」です。嘔吐がひどく、身体を動かすこともままならない状態でも、感染防止のためお薬だけは飲まなくてはならないのです。

  基本的に無菌室には自分一人ですので錠剤の開封から自分でしなければなりません。まず消毒液を出してその中に数十秒つけておいて、それから開封です。薬の量も半端でないので、吐き気と戦いながらのこの作業は嫌で嫌でたまりませんでした。
  開封もそんな状態なので、飲みこむとなれば大変です。口に含むだけでたちまち大きな吐き気がもよおされますし、それを我慢して飲み込んでも、30分間は戻さないように頑張らなくてはなりません。もし吐いてしまうと、また開封からやりなおしだからです。
  最初は我慢できずよく戻してばかりでしたが、その内に飲む前に吐くと30分くらい我慢できることがわかり、わざわざ吐いてからお薬を飲んだりしていました。そんな私の姿をガラス越しに涙を流していた母親の姿が今でもくっきり私の目の中に焼きついています。

  2週間経った頃から髪の毛が抜けてきました。5日後には、眉毛・足の毛などありとあらゆる髪がすべて抜け落ちていました。その頃から今まで0だった白血球が、少しずつ増え始めました。骨髄移植の成功です。このときばかりは家族だけでなく、先生方や看護師さんもみんな喜んでくれました。私も、無事に弟の骨髄が生着したのだとわかり、今までにない嬉しさを感じ、不安や恐怖もなくなり、涙を流して喜びました。

  数日後、ドナーになってくれた弟もお見舞いに来てくれて、元気な顔を見せてくれました。移植後、ずっと気がかりだったのは弟のことだったので、その弟の元気な姿をやっと見ることができて、安心しました。そして改めて心からの感謝の気持ち伝えました。

  白血球が上がり始めた頃から、徐々に苦しみはなくなり、体が楽になってきたのは移植から1ヵ月後でした。その頃、白血球はだいぶ回復していました。移植は無事に終わりましたが、これから拒絶反応や合併症、薬の副作用と闘っていかなければならないのです。

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退院

 幸いにも拒絶反応や合併症はあまりなく、検査の結果も良好で移植後約3ヵ月の平成11年2月10日、無事に退院する事ができました。ちょうどその頃から髪の毛も生え始めたのです。
  しかし退院後ステロイドや免疫抑制剤という薬の副作用で顔が腫れ、真っ赤になり体中にブツブツがいっぱい出来てきたのです。顔の皮膚はぼろぼろになり、必死でクリームをつけてもつけても、どんどんひどくなるのです。あげくのはてには、まるでミイラのような顔になってしまいました。

  まったく移植前の元気な面影はなく、以前の綺麗な肌の自分の写真を見ると、悲しくて、悲しくて、気がくるってしまいそうになりました。もちろん、もう誰にも会いたくなくなり、部屋に閉じこもりがちになりました。友達からの退院祝いの電話にも一切でませんでした。
両親はそんな私に気を使ってくれて、前から欲しがっていたパソコンを買ってくれたのです。

  母は「おまえが元気になってくれただけで幸せなんだよ。もう何もいらないよ。」と涙ながらに言ってくれました。父もどんな思いで毎日を過ごしていたか、病室の前にはこれたが、いつも中に入ることはできなかったことなど、事細かに話してくれました。

  ある日、何気なくふと両親の本棚をみると、私の病気についてのいろいろな本が綺麗に並んでいました。それを見た瞬間、どれほど私のことを心配してくれていたのかがしみじみと伝わってきました。入院中、私がどんなにきつくあたっても何も言わず優しく受け止めてくれたこと、いつも笑顔でお見舞いにきてくれていたことなど、いろいろな出来事が走馬灯のように描き出されてきて、これらの行動は私の苦しみを精一杯理解しようとしてくれていた親の愛情だったのだということがわかり、自然と涙が溢れて止まりませんでした。
  本当の意味で苦しかったのは両親だったのだということに初めて気がついたのです。

  今まで両親には金銭的にも精神的にも迷惑をかけつづけてきました。私は正直、親にこれ以上迷惑や心配をかけたくありませんでした。だからといって私はこの顔で人前に出る勇気はありませんでした。
  親孝行したくてもどうすることもできない葛藤に悩み苦しみ、そんなことを考えていると自分がいない方が周りのみんなは楽なんじゃないかという思いが頭をよぎることもありました。しかし退院が決まったときの両親や家族の喜ぶ顔を思い出すと、これ以上の親不孝はないと思い留まりました。
  それで今の自分にできる事、両親のために何かできる事は無いかと考えて、寺坊のホームページを作ってみたのです。最初は無茶苦茶なページでしたが、両親に見せるとすごく喜んでくれました。きっと両親はホームページに喜んだのではなく、頑張っている私の姿を見たからだと思います。

  病気になった事は辛かったですが、この闘病生活は奇跡といっても過言ではないほど恵まれていました。それはすぐに完全一致のドナーが見つかった事 ・ 1日でも遅かったら死に至っていたかもしれない盲腸が移植前急に痛み出し発覚した事 ・なにより環境に恵まれていました。病院の先生方や看護士さんや入院していた友達、愛する家族。そして何もかも大成功で少しずつですが回復に向かっている事などからです。

  今でも病院通いは続いていますが、今はもう病気前の私とほとんど変わらないほど、回復し、毎日を元気に過ごさせていただいております。

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最後に・・・

 この入院生活は、きっと御仏の慈悲の心によって、私に与えられた試練だったのかもしれません。たしかに闘病生活は苦しかったですが、私はこの闘病生活を通じて、学んだことはそれ以上に大きいものがありました。

  御仏は『この世に1人きりの人間なんて決していないのだよ』『この世に存在する意味や価値のない人間は1人もいないのだよ』という生きていくうえで最も大切なことを教えて下さいました。

  この病気を乗り越えて、私は御仏から教わった大切なことを伝えていくことを心に誓いました。

  冒頭にも申し上げましたが、赤ちゃんを亡くされる苦しみに比べると、私の苦しみなどほんの些細なものだったのかもしれません。皆様方の苦しみや哀しみは私には理解することはできないかもしれませんが、その中で精一杯受け止めるよう努力しております。それが御仏の導いてくれた道であり、御仏や支えてくださる方々に対するなによりもの恩返しになると信じているからです。

  赤ちゃんを亡くされることで、あまりの辛さに自分を見失ってしまいそうになることもあるでしょう。そんなとき、決して忘れてほしくないことは、あなたは決して「一人ぼっち」ではないということです。このサイト内の掲示板だけでも、多くの温もりある心が、必ずあなたを支えて下さるでしょう。赤ちゃんという温もりある存在があなたを見守りくださいます。
  そしてあなたを必要としている方も必ずおられます。あなたにはきっと愛する家族があることでしょう。たとえ、どれほど口の悪い家族であっても、その心の奥には誰よりもあなたを愛し、あなたの存在を尊く感じてくださるのが家族です。もちろん大切な友人や支えてくださる方々もございます。あなたと同じような思いで苦しんでいる方は、あなたの一言でどれほど救われることでしょう。少なくとも、赤ちゃんの存在はあなたが大切に受け止めて、この子に多くの感動を伝えていかなくてはならないのです。あなたの存在する価値はそこにございます。

  人生における大きな苦しみ・哀しみは、決してお金にかえることの出来ない最も大切なものを感じる試練です。その苦しみ・哀しみを乗り越えたとき、生かされるすばらしさを感じ、この上ない優しさと温もりの心をつかむことができるでしょう。

  私事ばかりを申させていただきましたが、最後までお読み下さり、本当にありがとうございました。

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藤田晃秀

平成24年9月現在です
副住職 藤田晃秀

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