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自分の存在する意味

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骨髄移植の闘病記(体験談)|自分の存在する意味

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自分の存在する意味

私は、以前、再生不良性貧血という病気にかかり、骨髄移植を受けて、新しい人生を歩ませていただいている一人でございます。このようなところで私の病気について紹介することは、かなり迷ったのですが、自分の存在する意味を感じる大きなきっかけになったものですから、紹介させていただくことにしました。

 この闘病生活を通じて「いのち」の尊さ、大切さを学んだことはもちろんなのですが、それ以上にいままで感じなかったことを感じることが出来るようになったこと、普段の生活がとても穏やかな気持ちで過ごせるようになったことが、なによりもの贈り物でした。

  この闘病生活は、今まで元気だった私にとってあまりにつらくて残酷な日々の数々で、入院しているときは「どうして自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか…」などと、いつも自分だけが被害者のように感じていました。
  しかし、これは退院してからわかったのですが、本当に辛かったのは私なんかではなく、私を支えてくれる方々だったのかもしれません。

  この病気は、私にかけがえのない絆というものを教えてくれたと思います。自分のことを大切に思ってくれている人がいるのだということを実感することが出来ました。

  私は、幼いときからずっといじめられて育ってきたため、小中高とあまりいい思い出がありません。また、いずれは寺を継がなくてはならないという思いもあり、大学や修行も親に言われるままで、人生に幸せを感じることは、ほとんどありませんでした。そのためか、この病気を経験するまで、自分は『孤独な人間』だと感じたり、「自分は何のために生まれてきたんだろう」などと、生きる意味を考えたりすることが多くございました。

  ところが世の中に『孤独な人間』なんて決していないのですね。私はこの闘病生活を通じて私を心配してくださった多くの優しさと、私を支えてくださる多くの温もりをつよく感じることができました。そして、闘病生活を乗り越えることによって、自然と周りを見わたす目や心の持ちようがかわってきました。自分はとても恵まれた環境の中で生活させていただいていたことに気づいたのです。

  心の持ちようが変わると今まで決して許せなかったことも、大きな心で受け止めることができるようになりました。今までの自分がちっぽけな存在に感じることさえございます。

  「私はいま幸せではないんです」とか「最近、幸せが感じられないんです」などという方もおられますが、日々の生活で小さな幸せは実はそこらじゅうに溢れているものですよ。ところが、私たちはそれを幸せだとか、感動する心が育っていないから、その幸せが心まで響いてこないだけではないでしょうか。

  まずは、すべてに感謝の気持ちをもち、温もりのある心の目で周りを見渡すように努力してはいかがでしょう。
  通勤や通学に行き来をする道のかたわらや、遠くに仰ぐ海や山を眺めて、季節の移ろいを感じることもございます。青々と芽吹いた草花をみて大いなる「いのち」を感じることもございます。人とのふれあいの中でお互いの心のひだや、言葉を交し合う中で相手の何気ない心配りを感じることもございます。

  皆様方の周りには美しい自然があり、愛すべき人々がいて、すばらしい出来事に満たされていることに気づくでしょう。
  私たちにとって、あたりまえだったことが、大いなる感謝と喜びの世界に生かされていること気づくでしょう。
  これはとてもすばらしい感動ともいえるのではないでしょうか?

  これより、私の闘病生活について紹介させていただきます。内容は私事ばかりで申し訳ないのですが、最後まで読まれることで、与えられた大切な「いのち」について考え、自分の存在する意味を理解し、温もりある心の目を持って、他人と比べることのない幸せを少しでも感じてくださることを願っております。

常光円満寺 副住職 藤田晃秀

この闘病生活は私がパソコンを始めるきっかけでもあり、こうして皆様方ともご縁をいただきました。ただ、たいへん長くなってしまいましたので、お時間があるときにでも、ゆっくりお読みいただけると幸いでございます。

◆ 闘病記 目次 ◆
発病

今、精神的に辛くてどうしようもないという方もいらっしゃるでしょう。私も退院後、何ヶ月も外に出ることが出来ない日々が続きましたが、それを乗り越えて今がございます。

赤ちゃんを亡くされる苦しみに比べますと、私の苦しみなどほんの些細なものかもしれませんが、温もりある存在が必ず守ってくださいます。

人生における大きな苦しみや哀しみは、いつかきっと無駄ではなかったと必ず思える日がくるのですよ。その日が来ることを信じて、希望を捨てず、しっかりと向き合う勇気を忘れないようになさってくださいね。

入院
転院
盲腸発覚
骨髄移植
退院
最後に

発病

 体の異変に気づいたのは平成10年の6月の終わりくらいです。当時、私は24歳で高野山で修行を終えて、山内のある寺院で働いていました。

  ある日、ふと気づくと、ぶつけてもいないのに太ももや背中に、どこかでぶつけたような大きな赤紫色のあざができるようになったのです。あざが治りかかると、他の場所にまた新しいあざができており、日に日に増え続けるのです。ただ、まったく痛みもかゆみもなかったので、「変だな」とは思うことはありましたが、別に気にしていなかったのです。

  あざができるようになって、2ヶ月間くらいは経ってからでしょうか。少しずつ身体に異変がおこってきたのです。当初は、身体のだるさを感じるくらいだったのですが、日が経つごとに微熱が続くようになり、歯茎から出血するようになりました。仕事は休まずに行っていたのですが、立ちくらみと睡魔がよく襲うようになり、身体のだるさもあり、あまり仕事が手につかなくなってきたのです。

  そこで1日休みをいただいて、病院で診察していただくと、当初は単なる風邪だと診断されました。それを聞いて安心しまして、処方されたお薬を飲んで1日寝ていたのですが、一向に熱は下がらず、眠っても眠ってもずっと眠い状態が続くのです。その時は処方されたお薬のせいだとばかり思っていました。

  それからも仕事へは頑張って行き、帰ると眠るだけの生活が数日続いたのですが、一向に回復の兆しはなく、どんどん身体の具合は悪くなり、そのうち少し歩くだけで息切れがするようになってきたのです。仕事場では「顔色が悪いけど大丈夫?」とか「お休みもらったほうがいいんじゃない」と、みんな心配してくださり、お寺のご住職にお願いして、また3日間の休みをいただきました。

  休み初日、歯茎からの出血もありましたので歯医者へ行って、治療していただき、ついでに「親知らず」があったので、その日のうちに抜いていただきました。ところがこの親知らずを抜いたことが、結果的に病気をすすめることになってしまったのです。
  歯を抜いた穴からの出血が、なかなか止まらないのです。その日は疲れもあって早めに床についたのですが、次の日、朝起きると枕が血だらけになっていました。親知らずの歯茎の血は一向に止まらず、丸一晩、出血がつづいていたのです。驚いて起きると、鼻の下につうっと、嫌な感触を覚えたので、触ってみるとそれは真っ赤な鼻血でした。

  当時、ワンルームでの一人暮らしだったので、誰もそのときは助けてくれる人はおらず、なさけない話ですが、自分ひとりでは、あまりの恐怖心で、病院へ行く勇気ももてませんでした。ただ、ひたすら病気の回復だけを願って、休みの間、眠り続けることしかできなかったのです。病状は悪化するばかりでした。

  身体はこの3日間で、自分でも明らかにわかるくらい急激に衰弱していきました。顔は血の気がなくなり、身体はだるく、とても息苦しく、自分がどうなってしまったのかまったくわからず、死への恐怖とあまりの不安でふるえがとまりませんでした。

  休みが明け、身体はだるく、もう何をする気力もなくなっていたのですが、無理をお願いして休暇をいただいていたため、もうこれ以上は迷惑をかけることができなくて、仕事へ行く決心をしました。
  普段は徒歩5分くらいの道のりですが、すぐに息切れして全身の力が抜けてしまうので、その日は通勤に約1時間くらいかかりました。そして寺務所へ入ると、前にもまして幽霊みたいな真っ青な私の顔を見て、みんな心配してくれて、すぐに病院へ連れて行かれたのです。

  病院では1度目のときは診察だけだったのですが、2度目は血液検査をしてくれました。
  約2時間くらいで検査の結果が届き、その結果を見て明らかに驚いている医師の表情がありました。お医者さまがおっしゃるには、私の身体を流れる血液には、血液中の成分である赤血球・白血球・血小板がほとんどなく、生きていること事態が不思議なくらいだったそうです。

  その時に、この成分についての役割を教えていただきました。

1、

赤血球には酸素を身体中に運ぶ役割があり、この赤血球が減少すると、全身の組織の活動が低下し、疲れやすくなるそうです。
正常は〔14~16〕ですが、私は〔4.4〕と特にひどかったので、少し身体を動かしただけで動悸や息切れをするようになったそうです。

2、

白血球は身体への免疫力、つまり細菌やウイルスの身体への進入を防ぐ役割があるそうです。
正常は〔4,000~8,000〕だそうなのですが、私は〔800〕でした。 微熱が続いたのは、白血球の減少によるものであり、1,000を切ると免疫力がほとんどなくなってしまうそうなので、大きな感染がなくて本当に良かったと思います。

3、

血小板は出血した際に血液を固めて止める役割があるそうです。
正常は〔15万~30万〕あるのですが、私は〔0.4万〕と正常の2~3%しかありませんでした。そのために、青あざができたり、歯茎からの出血が止まらなかったのです。

 お医者さまから「よく今までこんな状態で頑張ったね」といわれて、正直、私の症状はすべて血液がないことから来ているものだということがわかり、この十数日間の恐怖から開放されて、救われた気分になったことを覚えています。

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入院

 平成10年8月12日、実家近くの吹田市民病院に入院することになりました。入院後、検査を受けて、病気は重症の再生不良性貧血だと診断されました。私は貧血と聞いたので「たいしたことがなくて良かった」などと思ったのですが、それは大きな間違いであるということを、つくづく知らされる結果となりました。

  この再生不良性貧血とは、血液を作る組織である骨髄が何らかの原因で、運動が低下し、それに伴って、血液中の赤血球・白血球・血小板が常に少ない状態になってしまう病気だそうです。

  輸血だけが命綱なのですが、驚くことに血液にも寿命があるのです。私の場合は重症で、1、2日で血液が元の値に戻ってしまう為、ほとんど毎日、輸血をしなければならないのです。

  数日後、お医者さまから「この病気は数年前までは治す方法がなかったけれど、今は骨髄移植という大きな希望があるから大丈夫。決してあきらめないように。」と言われ、このとき初めてこの病気の重さを知ったのです。しかし、骨髄移植が確立しつつあった当時は、私は本当に恵まれていたのかもしれません。

  輸血にも限界があるようで、あまり輸血を繰り返すと、身体が受け付けなくなってしまうそうです。そのために「出きるだけ早くの骨髄移植が望ましいので、早急にドナー(骨髄提供者)探しをします。」ということもいわれました。

  最初はこの骨髄移植がどのようなものかわからなかったのですが、お医者さまから説明を受け、この骨髄移植がどれほど大変なものか理解しました。

  お医者さまの説明を大きく分けると以下です。

1、

移植するにはまずHLA(白血球の型)が一致するドナー(骨髄提供者)を見つけなくてはならないのですが、一致する確率は兄弟姉妹間で4人に1人、それ以外は血液の型によって数百人~数万人分に1人しかいない。

2、

HLAが一致する方が見つかったとしても、ドナーの負担は大きく約1週間の入院が必要になるため、その方が必ずしもドナーになってくれる保障はない。

3、

移植を受けるには大量の抗ガン剤の投与や放射線の治療をしなければならず、身体に大きな負担を与えてしまうことになる。


4、

放射線治療をうけると子供を作る組織は完全に死んでしまう。

5、

無菌室内でも完全な無菌状態ではないため、小さな感染で、そのまま命を落としてしまう可能性もある。

6、

移植後も拒絶反応や薬の副作用と一生闘っていかなければならない。

7、

移植が無事に成功して生着した後でも、また再発する可能性もある。

などなど

 あまりに沢山のことをおっしゃられたので、最初はよく理解できませんでした。 ところが冷静になって考えると、もしこの移植が成功したとしても、やりがいのある仕事、幸せな結婚、子供のいる家庭という私の誰もが望む決して贅沢ではない夢も、もう叶わないのだということがわかってきたのです。
  この病気のことや、今後のことを考えれば考えるほど、どんどん後ろ向きになり、小さな夢も、ことごとくつぶすようになってしまいました。今までが健康で、何でも好きなようにしてきた私だったので、どうしても病気の事を受け止めることができず、このときは完全に生きる気力を失ってしまったことを覚えています。

  私には免疫力がないために個室に移されました。基本的に部屋の外に出る事は禁止され、トイレなどで部屋を出るときはマスク着用が義務付けられましたので、他の患者さんと知り合うことはく、孤独だけの毎日が続きました。そのため、どうしても自分の病気のことを考えることも多く、その度に深い悲しみが私を襲い、どうしようもなくいらいらしたり、涙が溢れたりするのです。この気持ちのあたりどころは毎日お見舞いに来る母親しかいませんでした。母親にあたってもどうしようもないことがわかっていながら、このやり場のない苦しみをぶつけてしまうのです。そうなってしまう自分も嫌で嫌で仕方ありませんでした。

  ただ吹田市民病院の先生方や看護師さんはみんなとても優しく、退屈していないかと本当によく覗いてくれたり、話し相手になっていただいたりしました。それだけが私にとって唯一の救いであり、自分を保つ支えでした。

  幸いにも私の弟のHLA(白血球の型)が完全一致したので、最も望まれる形で移植する事が決定しました。移植に際しては無菌室と整った設備が必要です。しかし吹田市民病院には無菌室はなかったので骨髄移植は兵庫医科大学付属病院にて受けることになりました。

  お別れのときは、みんな総出で見送ってくださいました。本当に先生方や看護師さんは良くしてくださったので、別れは寂しかったのですが、みんな応援してくれていたので、できる限りの笑顔を作ってお別れをしました。平成10年10月6日のことでした。

転院

 兵庫医科大学付属病院に移ると、そこには血液疾患の患者さんが大勢いました。

  以前の病院では重度の血液疾患の患者は私1人で、完全に孤立させられていたため、嫌なことばかり考えがちになっていましたが、この病院に転院して初めていやしを感じることができ、自分の病気を受け入れる気持ちになりました。
  それは、同じような病気で入院している方々の前向きな姿を見たことで、「ここでは独りではないんだ」「みんな頑張っているんだ」などということを感じることができたからです。みんなまるで毎日の入院生活を楽しんでいるかのように、とても前向きで、明るく・優しく・面白いのです。

  転院してきた私を、みんな温かく受け入れてくれて、入院中の苦い体験や治療、飲んでいる薬のこと、どの看護師さんが優しいかということまでも笑いながら教えてくれました。みんなのおかげで、気持ちは一転し、明るい入院生活をおくることができるようになったのです。

  ほとんどの方は薬の副作用で髪の毛がなかったり、顔が腫れ上がったり、肌の色が赤や茶色に変色したりしているのですが、そんなことを気にする人なんて一人もいないのです。そのことには感動をも覚えるくらいです。私も「いずれこうなるんだよ」という事を教えてもらいましたが、みんながいてくれるので、悲しみなどありませんでした。以前の病院なら、決してこんな気持ちにはならなかったと思います。

  ただ、悲しいことに、なかなかドナーが見つからない方も何人もいました。思えば、私の場合は運良く兄弟間で一致しましたが、ほとんどの方は骨髄バンクから探されるので、なかなかドナーになってくれなかったり、一致しなかったりということが多いのです。
  そんな方々でも、兄弟間で一致して骨髄移植をすることを伝えると、嫌な顔をひとつも見せず、心から喜んで応援してくださるのです。「1人でも救われることが、私たちにとって大きな希望になるんだよ」ということをおっしゃっていましたが、内心はどれほどお辛かったことでしょう。恵まれている自分に改めて感謝し、必ず元気になってやろうと心に誓いました。

  輸血は相変わらずほぼ毎日続いていましたし、苦しい検査などもたくさんありましたが、輸血さえしていれば身体は元気そのものなので、みんなと遊んだりしながら、毎日の入院生活を楽しく過ごさせてもらいました。

  そして骨髄移植は11月18日に決定しました。

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